Tech Wrap!
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八坂神社の横からこのように抜け道があり、人もいない場所を、京都在住の方から教えていただいてましたので、散策いたしました、いい感じです。
この辺はお茶さんが立ち並び、コーヒー1杯800円なりです。
ここは一元さんお断り!
石畳・レンガの塀・木の家・もうウハウハが止まりません。
このお茶屋さんが非常に気になり、眺めていると家内から目が利くねといわれて、理由を聞くと、テレビドラマの京都何チャラ連続事件などの、ドラマで使われたらしい、ほんといい建物です。
この建て増ししたような家になぜか心惹かれます。
庚申堂・小さなお寺ですが、見ざる・言わざる・聞かざるのお猿さんが出てきて、すばらしいお寺だと思います。
庚申堂なんて読むかわかりますか?
ここにも三体のお猿さんが!
このボンボリさんが特徴があり、とても綺麗です。
融通尊。石碑もとても威厳があります。
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京都久しぶりです、市営駐車場も古くていい感じです、匂いが違います。
妙にいい感じの建て方で、ほんと今風ではありませんが、京都らしい駐車場で大変気に入りました。
祇園祭りの山鉾巡行で、引っかかると危ないので、電柱のトランスなどはすべてカバーされたままでした。
京都てんてん、京都にしかないらしいです、非常にカチッとした味で、14時間スープは野菜と鶏がらを煮込んで作るようです、次から次えとお客さんは絶えませんでした、今まで食べた事のない、裏打ちされた味です。
錦市場から歩きはじめました、いつも活気があり、綺麗な市場です。
超一流の刃物はここで買うのが、京都流です。
京都のアメカジファッションはここで。
リーバイス・ストアに多数の熊発見、思わずパチリ!
京都のお店はどこも個性的で、綺麗なディスプレイで、楽しめます。
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月面着陸40周年を記念してNASAが出してきた映像です、40年前に本当に月に人類が行くことができるだけの技術があったのかは、少し疑問も残るところですが、私の脳裏にはクラブ活動の暑い時期でしたが、鮮明にあの映像は覚えています、凄いな人類と思いました。
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2009年6月25日、マイケル・ジャクソンが此の世を去りました。
私と主人昭夫が、マイケルの公演を初めて観たのは、1987年横浜スタジアムの時でした。彼の音楽、そして抜群のダンスに魅せられて、私共は東京の自宅から横浜スタジアムへ、公演後はそのままウィークエンドを、別荘で過ごすべく箱根湖畔の家に向かいました。
現在の様に携帯電話もなく、道路事情も悪く、夜半に別荘に着いた私のところに東京の家から電話がかかり、先程からマイケル・ジャクソンのマネージャーから度々電話がかかってきて、是非、ミスター盛田と話がしたいので、何時でもいいから電話を下さい、とのこと。私は急いで彼のホテルに電話をしました。
彼は、「今日、ミスター盛田が来て下さったことのお礼を言いたかったのです。そして今日は自分が100%満足のいくショーが出来なかった。声も出なかった。次回の公演には必ず今日以上のショーをお見せしたいので、是非又おいでいただきたい」と言って幾度も謝っていたそうです。
アーティストには、これが最高ということはありません。いつもいつもより良いものを作る努力をしています。それを人はわがままと言うかも知れません。
この後、彼は日本滞在中、丁度私の誕生日の自宅のパーティに参加してくれました。それがここに載せてあるスナップです。
ベジタリアンでほとんど肉・魚を食べない彼はご覧の様に、私が用意した丁度季節の果物 『二十世紀』、大皿一杯の梨を一人でかかえて食べてしまい、とうとう私共同席の者には一つも口に入らなかった記憶が甦り、今でも我が家の話題の一つです。
この後、彼は我が家にある昭夫のおもちゃである自動ピアノやオルゴール、ミニチュアのストリートオルガン、さてはエジソン記念館から贈られた珍しいローカンのエジソンレコードを見つけて、一晩中子供の様に楽しんで過ごしました。
この日本滞在中に、彼はソニーの本社、信濃町にあった当時のCBSソニースタジオ、ソニー・メディアワールド、銀座ソニービル等を訪問し、新しいソニーの製品の数々を手に取っては、次々と質問する何にでも興味を示す好青年でした。
私達は、お約束通り、1992年東京ドーム公演に招待され出掛けました。楽屋ではいつもオフィシャルな写真が撮れるようにスタジオが出来ており、いつも素敵な写真を撮っては数日後サイン入りで送ってくれたものでした。
1996年12月、ヒストリーツアーが東京ドームで開催されました。その時は、昭夫は既に病に倒れていましたが、どういう経緯か忘れましたが、私は彼の泊まっていたキャピトル東急に迎えに行き、同じ車に乗ってドームまで走りました。車の周りをファンの車が囲み、タクシーで追いかける人もありました。車が赤信号で止まる度に窓から手を出して、紙切れ、ハンカチが渡されます。彼は快くそれを受け取って、急いでサインをして渡すのは私の役目でした。キャピタル東急からドームまで幾人の人にサインしたか、彼は嫌な顔一つ見せず、喜んでサインしている姿を隣で手伝いながら、この人って本当に心の優しい人なんだなと、つくづく思いました。
彼は昭夫に会うことを本当に楽しみにしていました。1998年「スリラー」が発売されました。その折、彼は昭夫の為に、特別な盾を作り、アルバムにもサインをしてプレゼントしてくれました。
彼の送ってきた盾には、
“THIS ALBUM OF MY MUSIC WARMLY DEDICATED TO AKIO MORITA… 永遠の友情 FOR OUR EVERLASTING FRENDSHIP. WE ARE LIVING IN THE SAME DREAM FOREVER… WITH ALL MY LOVE”
と書かれております。
1993年10月、昭夫が病に倒れたその時、海外から一番初めに届けられたメッセージは、マイケル・ジャクソンからのものでした。それは彼自身が作ったヒーリングテープでした。
彼は彼自身の声で幾度も「ミスター盛田、ミスター盛田…」と呼びかけていました。そして「あなたは必ず良くなる。必ず話せるようになる。…」そして、彼の選んだ静かな曲が流れます。そして再び又同じ様に「ミスター盛田、…」彼の呼びかける声が幾度も繰り返されるテープでした。そのテープの箱には彼自身の手書きで次のことが書かれていました。
『これを朝、昼、晩にかけて聴いて下さい。マイケル・ジャクソン』と。
私は、昭夫が朝起きる時間の10分前からこのテープをかけ、そして夜ベッドに寝かせてからこのテープが終わるまで聴かせて休ませることにしました。これは、6年余の間、昭夫が亡くなるまで、毎日続けられました。
1998年、ハワイ、ホノルルでマイケルの公演がありました。車椅子の主人を押して、このショーを観に私はホノルルのアロハスタジアムに出掛けました。
翌日、彼は私共のハワイの別荘に見舞いに来てくれました。昭夫が顔をくしゃくしゃくにして喜んだのは、申すまでもありません。今もその時の彼の優しい姿を思い出します。
昭夫が世を去って10年。今頃、マイケルは彼が最も尊敬する先生であり、心の友でもあった昭夫に、彼がいつもしていたように、「どうしたら若い人達の心を掴むことが出来るだろうか」「どうしたら自分はもっともっと尊敬される人になれるだろうか」「誰を信じたら良いのだろうか」とマイケルの質問攻めに合っていることでしょう。
誰も信じる事が出来ず、子供に動物に安らぎを見出していたマイケル。
今天国にあって、静かな安らぎの中に、誰に気を遣うことなくゆっくり休んでいるのでしょう。
“アイ ニード ユア ヘルプ” 幾度も彼から電話が私に掛かって来ました。丁度10年前のことです。私はあの時、どうしてもっと彼の本当の声を聴いてあげなかったのか、と今悔やまれてなりません。昭夫の病状が一番悪い時で、私にはその余裕がなかったのです。
ごめんなさい、マイケル。
でも、私は今、あなたは誰の助けもいらない幸せな世界に居られると信じております。
2009年7月7日 盛田良子
ソニーの創業者 盛田昭夫氏のエピソードからとても良いお話なので、抜粋させていただきました、マイケルの気持ちがあるいは優しさがよくでてるエピソードだと思います。
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同じ団塊世代の大量退職があり、70年代前半にともに同世代の代弁者となった吉田拓郎(63)が体調不良でツアーを中断した中での“完走”。約2100人の観客を前に「雄大な桜島のもとでは、さ細な話ですが芸能界に入って40年になりまして。これも皆さまのご愛顧のたまもの」とあいさつした。
4月からの3カ月間で33カ所35公演を行い、延べ約7万人を動員。「各地でよく食べよく飲み元気いっぱい」(関係者)だが、この日は楽屋で「さすがに疲れたなあ」と苦笑。若い頃より還暦を迎えた今、精力的に見えるあたりが陽水ならでは。当時がむしゃらに突っ走った拓郎とは正反対の生き方にも映る。
声も絶好調。高音の伸びは年とともに増している印象さえある。自分の歌だけでは物足りない様子で、音楽の世界に入ったルーツの歌として故美空ひばりさんの「車屋さん」、クレイジーキャッツの「ハイそれまでヨ」をいきなりアカペラで披露。ご当地民謡の「鹿児島おはら節」も手拍子をしながら歌い、客席の盛大な拍手を浴びると「イエイ!末代までの誉れです」と両手でガッツポーズした。
バンドを率いての「夢の中へ」など軽快な歌もあれば、5月に他界した盟友の忌野清志郎さん(享年58)との思い出をしのびながら弾き語りで「帰れない二人」を歌うなど多彩なステージ。アンコールも2度応え、約2時間半で26曲を熱唱した。
東京に戻ってからは3年ぶりとなるアルバムの製作に突入。40周年記念の第2弾ツアーを11~12月に6都市10公演で行うことも発表し、還暦に達してなお盛んだ。(スポニチ)
こんないい話題もあり、うれしくなっちゃいますね、老いてますます、精神的な部分は上を目指せれば、人生最高の喜びであります。
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大阪の歴史を垣間見るにはここをはずすことはできません、大阪歴史博物館。
最初に迎えてくれるのは難波宮の時代です、中国などと交易が盛んで、中国色が凄く出ています、大阪は今でも韓国の方が多く住んでいるのはその辺の事情があるのかもしれません。
最上階の窓がしまると、上映が始まり、終わると同時に窓のブラインドが開き、大阪城などの建物が見えてきて、すばらしい景色と演出です。
ものすごく面白いと思いました、ミニチュアの街が年代ごとに作られて、それが凄く精巧にできていて、家の中まで見えたり、その時代の人の姿や生活が垣間見れます。
これは芝居小屋の中を再現したもので、大阪は食の文化と芸能の文化は抜きんでていたようで、おいしいものを食べて、芝居で楽しむとゆう文化で昔から盛んなようです。
当時の風景が浮かんできますね。
屋根の上にはちゃんと物干しまである、形がいいですね。
えらいさん方の集まりかな?
昔の典型的な建て方です、中庭があり、蔵がある、火事が非常に多くとてもこまったようです、そらロウソクや行灯なんで、100%木の家なんですぐに大火事になります。
歌舞伎のための演芸場かな。
当時こんな感じで楽しんだんでしょうね、今よりいい時代だったかもしれませんね。
文楽人形、これを見て、ターミネーターやとイメージしてしまいました、なんか似てません。
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鶴橋といえば、もちろんキムチ所狭しと販売されています。
駅の建ち方も戦時中のそのままで、今こんな商店街と繋がる駅はないと思います。
お線香専門のお店、とてもいい香りで心が非常に落ち着きます。
お線香ひとつとっても、こんなに種類があり、奥の深さが見え隠れします。
昆布専門のお店、真ん中に吊るされた、はかりのカワイイこと、はかり売りとゆうことですね。
こんなふるいお風呂屋さんもあり、時代が変われど変化できない場所なのかもしれません、儲からないからやめていくお風呂屋さんが多い中がんって欲しいものです。
この古さ半端でないと思います。
これも古い建物です、中を覗くと、何とか荘と書かれていました、中はまるで昭和初期のままでした。
この錆びた感じと中に残されたお菓子のプラスチックがとても哀愁を感じさせてくれます
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