疑惑の銃弾!
事件発生
1981年8月31日、輸入雑貨商を営む三浦和義が妻A子とロサンゼルス旅行中、A子が宿泊していたリトル東京のホテルニューオータニの部屋で一人になったとき、日本人女性が上がり込んできて、A子の頭部を鈍器で殴打、軽症を負う。
同年11月18日午前11時5分頃(現地時間)、三浦夫妻はロサンゼルス市内の駐車場で2人組の男に銃撃され、A子は頭を撃たれて意識不明の重体。夫の三浦も足を撃たれた。1982年1月、A子は日本に移送され神奈川県伊勢原にある東海大付属病院に入院した。しかし、意識が戻ることはなく11月30日に死亡した。三浦は、保険会社3社から1億5500万円の保険金を受け取った。
「疑惑の銃弾」報道
1984年に週刊文春が「疑惑の銃弾」というタイトルで、三浦が保険金目当てに仕組んだ事件ではないかとする内容を連載した。この影響でマスコミは「三浦犯人説」を強調する報道が目立つようになり、三浦の自宅前にはテレビのワイドショーや週刊誌の記者が列をなし、三浦の自宅に不法侵入するものが出る始末であった。1985年に三浦の愛人B子が1981年8月のA子傷害事件における犯行を産経新聞上で告白する。
逮捕
同年9月11日、警視庁は三浦をA子殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕。同12日はB子も同容疑で逮捕した。1998年に釈放される。拘置所にいたのは13年。
殴打事件有罪
殴打事件では、B子に懲役2年6ヶ月、三浦には懲役6年が確定した。有罪判決確定の4ヶ月前に釈放されたが、宮城刑務所に収監され2年2ヶ月刑務所に服役。三浦が一連の事件で拘置所・刑務所にいたのは通算16年間。
銃撃事件無罪
殴打事件公判中の1988年10月20日、三浦夫妻銃撃事件で三浦と実行犯とされたロサンゼルスで駐車場を経営していた人物C男が殺人容疑で逮捕された。東京地裁はC男には証拠不十分で無罪、三浦には無期懲役の判決が下った。三浦は東京高裁に控訴、高裁では証拠不十分で逆転無罪となる。検察は最高裁に上告し、2003年3月5日に無罪となり、銃撃事件の日本における三浦の無罪が確定した。
しかし、3社の保険会社から返還訴訟を起こされる。訴訟では2社は三浦の敗訴、1社は三浦と和解した(和解金額は不明)。
再逮捕
2008年2月22日にアメリカの自治領であるサイパンにおいて三浦は、現地に出向いていたロサンゼルス市警の警官に殺人容疑で逮捕された。これは、「ロス疑惑」の捜査がアメリカでは未だ進行中(アメリカでは時効制度は存在するが殺人に関しては時効は存在しない)であり、それに基づいての被告人身柄確保と思われる。今後、ロサンゼルスへの移送を予定しているという。ただし、被告側は日本の最高裁での無罪判決の確定を根拠として、「一事不再理」の原則を盾にアメリカ当局の身柄拘束を不当なものと見なし、ロサンゼルスへの身柄移送の中止と身柄の解放を訴えて、法定で争っていたが、10月10日にロス市警に身柄移送、10月11日、ロス市警にて三浦は自殺を図り死亡した。
名誉毀損訴訟
三浦はマスコミに報道された名誉毀損報道に対し、弁護士を代理に立てない本人訴訟を起こす(民事訴訟のみ可能)。マスコミに対する名誉毀損の訴訟は476件にものぼる。三浦は訴訟の内80%が勝訴していると主張している(15%は時効による却下、5%は三浦の敗訴)。
現在は被疑者の人権を守るために、逮捕や連行の場合は警察は頭から衣服をかぶせたり全体をシートで遮断するなどの措置が、報道機関では手錠にモザイクをかけたりしている。これは1985年9月11日に三浦が逮捕において警察が連行中に、報道関係者の写真撮影用に腰縄・手錠姿を撮影させた際、三浦はこれを有罪が確定していない被疑者を晒し者にする人権侵害だとして提訴して三浦が勝訴したことがきっかけとなった。
自殺
2008年10月11日自殺を図り死亡した。
80年代を生きた人たちには衝撃的な事件で、当時毎日のように、記者たちが追っかけていたのは記憶にインプットされています、16年も刑務所に入りながら、若い時からしたたかな人物だったのに、あっけない幕切れで、誰も予想できない結末になりました、戦うのに疲れたのかな、それともロス市警にしてやったりと思ったのか、死んでしまったので真相は闇の中となってしまいました。
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